口述筆記 会報誌「サンドリーム」に掲載されました。 |
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会報誌 平成20年4月号掲載
口述 O.Y
筆記 野村美代子 平成19年8月1日 私の不安私は、96歳のお婆さんです。 夫や親もきょうだいたちも、もう誰も身内はいません。夫が死んでからは、ずっと独居暮らしでした。 私は、今、どこにいるかはよくわかりませんが、もっと早くここ(グループホームふれあい家族)に、来ればよかったと思います。楽しくて、広くて、皆優しくて。「ありがたや、ありがたや」 私はなあ。家が百姓で地主やったんよ。広かったから、人を大勢雇ってなあ。兄さん達も学校出てから直ぐに畑仕事を手伝わされてたなあ。 私は、なんの手伝いもしきらんかった。姉さんは頭もよくて、美人で凄い人やった。女学校出てから、小学校の先生になったんよ。 それに比べて、私は、器量も悪くてなあ。自分とは正反対の姉さんがいつも羨ましかった。なんにもできんから、私は皆に申し訳なかったよ。でも、末っ子だったからお父さんやお母さん、きょうだい皆から可愛がられたなあ。お母さんは本当に優しかったなあ。 私は姉さんと違って頭が悪かったから、女学校出てから姉さんの勧めもあって、福岡の全寮制の裁縫の学校に行ったんよなあ。卒業してから家に帰ったけど、縫い物もあんまり好きではなかったから、なんもせんで家の手伝いをしよったら、お見合いのお話がきてなあ、親同士が決めた結婚で好きも嫌いもなんもわからんまま24歳の時、従兄の良男(仮名)さんと結婚したけど、戦時中で一緒にいる時間はあんまりなかったよ。良男さんは海軍の兵隊で、毎日来る日も来る日も、潜水艦に乗って潜望鏡を覗いとったそうな。 新婚旅行は他の兵隊さん達と一緒に船で東京に行ったけど、その時生まれて初めて富士山を見たよ。富士山は美しかったなあ。良男さんは、真面目な大人しい人やったけど、私はあまり好いてなかった。面白味の無い人でね。良男さんもたぶん、私のことを好きじゃなかったと思うよ。男好きやったからね、昔から。 そう言えば、小学校時分に好きな先生がおって、吉本(仮名)先生って言って、足の速い人気の先生だったなあ。 私は、その先生の事が大好きやったんよ。若松のY小学校っていうてな、島郷にある学校やったかなあ。だけど、今考えてみたら、結局私には、良男さんで丁度良かったのかもしれん。わからんけどなあ。そう思うのよ。 終戦後は、戦地から帰ってきてから、子供もいないしね、夫婦で一生懸命働いたよ。ビルの掃除婦もしたことがあるよ。年をとっても、私達には子供がいないから誰も見てくれる人はおらんからなあ、働いてお金を貯めとかんとなあ。 ここにおる人は皆、家族がおるやろ? 私には家族がおらんからなあー。だあーれーもおらんのよ。どうしたらいいやろなー。困ったなあー。ここにおれば娘が自分にもおるような気になってくるけど・・・。 ここに住んどる人の誰かの家族が来られたりして、賑やかしいときは、「自分には身内がだーれもいない。」と痛感するなあ。そういう日は夜になると、先々の不安と寂しさで、眠れない日もあるんよなあ。そしたらいつも、今、自分にいくらの貯金があるのか?と、思うと、段々、これから自分一人で生きて行く為に必要なお金のことが心配になって、お金を数えてみたり、貯金通帳をみたりしたくなるんよなあ。なんか、涙がでてくるなあー。100歳になったら、お祝い金がもらえるんな!それなら老後のために貯金せんとなあ。いつまで生きるかわからんもんなあ。ああ、なんか、涙が出てくるなあー。私は、できることがなんにもなくてなあ。みーんなに迷惑かけるばかりだから。すまんなあー。こんなに良くしてくれる所は、他には無いよなあ。 |
会報誌 平成19年11月号掲載
今、私は・・・ 口述 I.F 私は、86歳。人生なんてどうにかなる。今までもそうやって生きてきたんだから!くよくよしたって始まらない。元々、私は呑気なたちなのよ。 私の母は、すぐに弱音を吐いてくよくよ考える人だったから、そうなりたくないといつも思ってたわ。 戦争で引き揚げてきて、全てを無くし、命からがら裸で逃げてきた。辛いことばかりあったけど仕方ないと諦めてた。そういう時代だったんだもの。 でも、幸いなことに、父は小学校の校長先生だったし、母は裁縫の先生だったから、お金持ちではないけど、良い環境で育ったと思ってるわ。 主人も樺太庁の役人で、公務員だったから、暮らしにはそんなに困らなかった。大人しくて、優しい人だったけど、何でも私任せだったわ。出会った次の日には、もう、お嫁に行ってて、何が何だかわからないまま一緒になったけどね。今だったら考えられないことよ。そう言えば、今、主人と子供たちは、どうしているんだろう? 昨日のことさえも覚えていないのよ。おかしいよね。ふと、今、何が何だかわからなくなった。自分の年さえも覚えてないのよ。おかしいよね。まあ、私が分からなくても、教えてくれる貴方たちがいてくれるから、いいけどね。こうなったから、ここにお世話になっているんだから。今出来てることでも、そのうち、だんだんと出来なくなるでしょう。多分、ここにいる人達、皆そうだと思うのよ。 毎日、物を折ったり、切ったり、本を読んだり脳や手先を使うことが大事よね。そうしないと、どんどん駄目になっていってしまうと思うの。今では、家族のことも分からない。家族の方も、私が元気でいるか、病気していないかなんて、ちっとも気にしてないんじゃないかしらね。 だけどね、それとは逆に、私はまだ、あの世には逝きたくない! まだまだ、私には、出来ることがある! 100点は取れなくても70点採れればいいじゃないか! いつまでも、全てが完璧に出来る人がいたら、その人は人間じゃない。皆、いずれ、子供に戻っていってしまうだけのことよ。と、自分にそう言い聞かせる強い自分がいる。 こんなこと言ってるけど、ほんとに、「何が何だかわからなくなってきた」。 |
会報誌 平成19年10月号掲載
9月号に引き続き利用者の方に面接し、心の内を口述筆記したものです。 生き甲斐のある人生をめざします 私はこれからの激しい変化のある日本社会で生き抜く為には、どういう資質と能力を身につければいいのかを、いつも考えているところです。 生きていく為にどうしても必要なものは、生きる力を育成していく事が一番大事だと思います。生きる力とは、自らが主体的に考え行動していく事です。この世に生ま 私は物忘れする事もなく、自分で生きていく、何でも自分で出来る、自立した自分であり続けたいと考えています。家族には迷惑をかけないよう、正しい生き方を今後 家内にはいつも良くしてくれると、感謝しています。私が人から悪く言われないようにしてくれているのは、全て家内のお蔭です。 息子も長男として、親の事を一生懸命考え、男として頑張っている事に感謝しています。嫁は県庁職員に採用され一生懸命頑張っています。良い息子に、立派な嫁が来 自分の人生が、生きがいのある人生になる様これからも頑張ります。 |
② 口述筆記
投稿日:2022年3月23日 更新日: